隠れキリシタンの里
天文18年(1549年)、フランシスコザビエル神父が日本に赴任して以来、キリスト教は急速に国内に広がりました。東和町では製鉄業の発展とともに信者が増加していったようです。元禄元年(1558年)東和町米谷の森合館初代城主である千葉土佐は、備前の国(現在の岡山県)から千葉大八郎、小八郎兄弟を呼び製鉄の秘伝を伝授されました。
その製鉄法では、あるおまじないを唱えると鉄がよく溶けると教えられたという。実はこれがキリスト教だったのです。製鉄法のほかに、鋳物の技術や煙草栽培、製塩法、酒造技術なども宣教師から伝わりました。しかし、幕府はキリスト教を弾圧し、仙台藩でも元和6年(620年)から弾圧が始まり、多くの信者が処刑され殉職しました。
しかし、熱心な信者たちは隠れキリシタンとして信仰を続けました。長い間隠されてきた信仰の歴史が、昭和26年米川村西上沢で後藤寿庵の墓が発見され、昭和29年に古文書が見つかってから、詳しいことが知られるようになりました。処刑された信者たちの遺体は老いの沢、海無沢、朴の沢に葬られましたが、現在では海無沢の塚だけが原型をとどめています。その他、信者がミサをあげた大柄沢キリシタン洞窟も残っています。