多賀城跡とその周辺?その1
大和朝廷がこの地を政治・文化・軍事の拠点とするために国府と鎮守府を置いたのがこの多賀城です。中心部には政庁の礎石や正殿の基壇が残されていますし、周辺には一般事務を行った実務官衙(かんが)ブロックが点在しています。南門近くの小さなお堂の中に立っている高さ2mほどの碑は、多賀城建造時から残っているものです。
建立は天平宝字6年(762年)といわれ、多賀城の創建や修造などについての記述が141字で刻まれています。また、多賀城市八幡の宝国寺裏の丘に立つ二本の大きな松は、小倉百人一首に「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつ すゑのまつ山なみこさじとは」という清原元輔の歌に読まれたのが、この場所「末の松山」です。
樹齢450年以上ともいわれる老木で、都から多賀城に赴任してきた都人がその美しい風景を歌に読んだもののようです。それが、小倉百人一首や新古今和歌集などに多く残されています。清原元輔、能因法師、西行などの歌が有名ですが、多賀城には「末の松山」の他に「沖の石」、「壷碑」「おもわくの橋」「浮島」「野田の玉川」などの歌枕があります。