奥州の雄藤原氏の誕生
前九年の役は奥州の俘囚(朝廷に帰服した蝦夷)の長である安倍氏と陸奥守兼鎮守将軍源頼義との戦いである。天喜4年(1056年)安倍頼時の子貞任が、源頼義から権守藤原説貞の子殺害の犯人とされたことを父頼時がかばい、反乱を起こすに至ったことに始まる。当時奥州に独立的な勢力を持っていた安倍氏に対し、源頼義が仕掛けたものされています。
安倍頼時は鳥海柵(岩手県金ヶ崎町)で戦死してしまうが、息子の貞任が黄海(きのみ:岩手県藤沢町)で大勝する。このとき源頼義は、息子義家(八幡太郎)を含むわずか7騎で逃げたが、出羽の俘囚長清原武則が源氏側に参戦し、戦況は逆転して北へと追い詰められた安倍貞任は厨川の柵(くりやがわのさく:盛岡市)で戦死した。
こうしたて康平5年(1062年)安倍氏はついに滅びてしまう。衣川の戦いで源義家が安倍貞任に「衣のたてはほろびにけり」と歌を投げたところ、「年をへし糸のみだれのくるしさに」と返したという故事が残されている。安倍氏側に参戦した亘理の藤原経清は処刑され、その子清衡は母親とともに敵である清原氏に引き取られる。この後、後三年の役を経て源氏が台頭し、奥州平泉に藤原氏が誕生した。旧志波姫町に前九年の役の古戦場がある。