もう一人の光源氏
昨日の藤原実方朝臣が光源氏のモデルであるという節に違和感を覚えた方々も多いのではないでしょうか。というのは、以前紹介したモデルは、河原左大臣、源融(みなもとのとおる)であったのに、おかしいではないかという点についてです。しかし、現実にこの二人の人物はともにモデルであったと確かに伝えられているようです。
当店の立場からすると、源融がモデルであったという節を支持したいのです。それは、同じ時代に陸奥出羽按察使(あぜち)として国府多賀城に下向したことまでは同じでも、塩竃の浦の眺めがことのほか気に入り、塩竃神社向かいの高台に屋敷を建てて塩竃の風景を愛で、帰京後もその景勝が忘れられず、京都6条に塩竃の浦を再現したのが源融だからです。
平安の昔を代表するプレーボーイが暮らしていた町に、今わたしたちも住んでいると思っただけでも近親感を覚えます。今風に言えばさしずめヨン様の隣にでも住んでいるような気分とでもいえばよいのでしょうか。実はこの源融、陸奥には下向していなかったとい説もあるようですが、塩竃の浦を有名にした功績だけは間違いないようです。