慶長遣欧使節団出帆の地「月浦」?その2
太平洋を横断する90日間の航海であったが、常長等はそこに多くの乗組員を残し、スペイン艦隊に乗り換えて大西洋を一路スペインに向かった。一向はセリビアで大歓迎を受けた後、マドリードでスペイン国王フェリペ三世に拝謁することができ、早速正宗からの書状を手渡した。その後、常長はキリスト教信者となるべく先礼を受ける。
「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」という洗礼名授かった常長は、ローマに向かい、ついに教皇パウロ5世に謁見することができ、ローマ市民権を受けるとともに貴族の位も与えられたが、貿易の交渉は前進しなかった。伊達政宗が日本国の一藩主に過ぎないこと、既に日本では禁教が始まっていたことによるものである。
月浦を出帆してから7年の歳月が流れたが、ついに目的を果たすことができないまま帰国した。幕府は常長が出帆した翌年にはキリスタン禁止令を敷いていたのである。常長の努力は報われること無く、帰国後は隠棲を余儀なくされ2年後にその生涯を終えた。常長のものと伝わる墓は、川崎町支倉の円福寺、仙台市北山の光明寺、大郷町の3か所にあります。