上盾城本丸跡?その2
命がけの渡欧は、いまでこそその偉業は讃えられていますが、実はその事実が広く知られるようになったのは明治時代に入ってからのことです。政府が派遣した岩倉具視らの遣米使節団が、訪問先のイタリアで、常長の花押と署名の入った手紙を発見したことがきっかけだったという。日本からヨーロッパへの初の外交使節団として海を渡った常長の存在が、何故それまで知られていなかったのか?
これにはキリスタン禁制という時代背景があった。そもそも常長が日本を出発する時は、キリスト教は容認されており、政宗の親書の目的はキリスト教宣教師の派遣依頼とメキシコとの直接交易でした。ところが、苦難の末7年後に常長が帰国してみると、キリスタン弾圧へと様変わりしていた。現地で洗礼を受け教徒となっていた常長は居場所を失った。
常長の隠棲の地となったのが川崎町でした。支倉家の居城であった川崎町の東部にある上盾城は、東西300m、南北200mに及ぶ広大な山城でした。現存する建物はなく、今は外壕、内壕の跡がわずかに当時の名残を止めているだけです。約2haの本丸は、竹林と杉林に覆われ、静寂につつまれた散策コースになっています。