日本初の世界一周者?若宮丸乗組員
石巻湊米沢屋平之丞の持ち舟で800石積24反帆の若宮丸は、船頭の平兵衛(平之丞の息子)等16名が乗組み江戸に向かって出帆した。寛政5年(1793年)のことである。積荷はといえば、仙台藩御用米1332表と御用雑小間木400本であったという。この航海の途中福島県岩城沖で暴風雨に遭い漂流しアリューシャン列島のアッカ島に漂着した。この島で船頭の平兵衛が病死したが、津太夫以下15名はロシアの貿易商と出会い助けられた。
その後、バイカル湖の南のイルクーツクに8年間滞在した後、亨和3年(1803年)首都ペテルスベルグで皇帝アレクサンドル1世に謁見し、同年6月津太夫ら4名はロシアに帰化し、通訳となった善六とともにロシアの軍艦ナディ?ジタ号で日本に向かった。バルト海のクロンシュタット港を出港した後、南アメリカのホーン岬を回りハワイ島を経て文化元年(1806年)9月6日長崎に入港した。
帰国した4人はその後幕府の厳しい取調べを受けた後、津太夫と左平は寒風沢(塩釜市)へ、義兵衛と多十郎は室浜(東松島市)へ帰郷した。この間10年の歳月が流れていた。船首平之丞は寛政11年(1799年)、彼らの帰還を絶望して石巻市の禅昌寺で七回忌を行っていた。そのときの供養塔が1989年に庭園工事をしたとき発見され、今も乗組員の数奇な運命を訪れるものに語りかけている。