大仏造営に一役買った涌谷の砂金
日本最古の金が採集されたのがこの涌谷です。ちょうどこの時期国家を挙げて取り組んでいたのが、あの奈良の大仏建造であったが、聖武天皇は産金を大いに喜び、年号を天平感宝と改めたといいます。この時代、国力は安定してきたとはいえ、内外には色々と不安を抱えていた時代であったため、国威を内外に示す狙いで大仏建造に取り組んだと考えられています。
高さ18mもある当時としてはとてつもない大きさの大仏を銅で鋳造し、金メッキを施すという遠大な計画であったが、当時の日本では金は産出されず、全量確保する目途が立っていなかった。しかし、794年(天平21年)、陸奥国守百済王敬福から産金が報じられ、金900両(13kg)が献上された。
この百済王敬福という人物は、朝鮮半島の百済国が滅んだとき日本に帰化した王族の子孫で、百済は日本に先進技術をもたらした国であり、この金採集も渡来系の人材の功があったればこそ実現できたのである。かくして、涌谷の金により大仏は無事鍍金されることとなり、752年(天平勝宝4年)、盛大に開眼供養が行われたという。現在の「天平ロマン館」一帯が産金場所であったことが後の調査で確認されている。
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