尿前の関(しとまえのせき)
鳴子から小国に抜ける出羽街道に尿前の関があった。1689年(元禄2年)5月15日、芭蕉と曾良はこの尿前の関にさしかかった。当初は小野田経由で山越えする予定であったが、道が険しいので急遽鳴子経由で中山越えに変更して、通行手形の用意がないまま関所に入ってしまったため取調べが厳しく長時間足止めされたということである。
ここは出羽仙台街道の宿駅のひとつで、交通の要所であると同時に軍事上の要衡の地であったこともあり、戦国時代から堅い守りが敷かれていた。有名な句、「蚤虱(飲み滲み)馬の尿(ばり)する枕もと」は、峠を越えた堺田の封人の家に宿したときに作られたもの。芭蕉がここを通ってから約80年後の明治5年に「蚤虱?」碑が建てられた。
尿前の地名は義経が平泉に向かう途中、北の方が藤原領内に入った安堵から尿をしたためという。「奥の細道」の旅のほぼ中間点。芭蕉と曾良は鳴子温泉の西に位置する、この尿前の関を越えて、最上、尾花沢へと出羽の国に進んでいった。尿前関所跡付近には出羽街道の昔ながらの道も見られ、芭蕉一行の苦労が今に偲ばれる名勝地です。