白石城と片倉小十郎景綱?その2
初代白石城主となった片倉小十郎景綱は、米沢八幡の神職の子として生まれたが、伊達家の米沢時代に聡明さを買われ、そのころまだ幼かった梵天丸(政宗の幼名)の近侍となった。戦国時代の騒乱期にあって数々の武勲を挙げ、政宗随一の重臣として処遇されるまでに出世をした人物であり、豊臣秀吉からも誘いを受けたという。
秀吉が小田原の北条氏を攻めた時、伊達政宗は秀吉から援軍の要請を受けたが、あくまでも戦国の覇者への道を歩むべきと主張する主流派と、秀吉の援軍要請に従うべきとする参戦派とが対立し、政宗が決断できずにいたとき、小十郎の進言により秀吉の要請に応えることを決意したため、伊達家は事なきを得ることができたという。
こうして、伊達家の重鎮として天下に知られるようになった景綱は、秀吉ばかりか家康からも誘いを受けたが、あくまでも政宗の家臣であることを固辞したという。片倉家では、代々小十郎の名を継ぐが、二代目小十郎重長は大阪夏の陣で大阪方の名将真田幸村軍や後藤又兵衛と激闘を演じ、鬼の小十郎と呼ばれるほどの武者であったという。