秋晴れ
今日は、朝から気温が上がり、まるで夏が戻ってきたような天気です。気温が高いといっても、やはり、ときより開け放った窓から入る風は正しく秋の気配をまとった季節の香りがします。ボクは、寂しくなったり悲しくなったりする理由など全くないのですが、なんとなくため息が出るのはなぜでしょう。夏には、熱い熱いと言いなから海や山に繰り出し、帰りはぐったりすることを毎年経験しているのに、何故か出かけてしまう。その疲れを癒すには最適な季節なのに、なんとなくセンチメンタルな気持ちになる。ボクが思うには、これはお祭りが終わった後に感じる寂しさと似ているような気がします。見方を変えれば、秋が控えているから、安心して夏にエネルギーを放出できるので、その秋が訪れると、なぜが寂しくなるというのは、どういうことなのでしょうか? もしかして、秋が来るのは嬉しいことだが、秋は短くすぐに冬が来てしまう。ちょっと気温が下がったりすると、もう冬支度を始めなければならない。そのくせ、冬は冬で楽しみがいっぱいあります。ボクは、何といっても、断然秋が好きです。
それは、大好物のリンゴの便りがもうそろそろ届くころだからです。今は、リンゴも一年中あり、お母ちゃんが欠かさず用意してくれるので、いつでも食べられますが、やっぱり、取り立ての新鮮なリンゴはまた格別です。リンゴが大好きなオヤジもまたこの季節が来るのを今か今かと待ちわびている一人で、寝る前に、「もすぐだなあ!」といつもリンゴの話題で盛り上がっています。そんな楽しい季節でもある秋が、どうして物悲しい季節としての位置に甘んじているのでしょうか。ボクは何故か、このメカニズムについて考え込んでしまいました。当然たいした結論には結びつきませんでしたが、それでも、一つの仮説を思いつきました。それは、自動車のエンジンに吸気・圧縮・爆発・排気という4工程があるように、人間は、何かを成し遂げようとするとき、準備をするために材料を集め、次にそれを組み立てる。そして、万全の態勢が整ったところで、それを実行する。当然そのあと始末をしなければなりません。季節というものは、宇宙の都合でもたらされるものなので、ボクたちの力でコントロールできるものではありません。
この4つの行程に相当するのが四季で、その季節にやるべきことが、天候不順などにより、予定通りやりきることができなかったことがストレスとなって蓄積されてしまい、その悔しさや後悔が、虚無感となり寂しさにつながるのではないかというものです。もちろん、人によって季節の感じ方はそれぞれですから、到底皆さんから共感を得られるとは思いませんが、ふとそんなことが頭に浮かびました。ところで、今日この時間は、まるで真夏日を思わせる暑さで、また夏が戻ってきたのかと勘違いしてしまいそうな陽気です。でも、朝早くに感じたあの涼しい風は、いったい何者なのでしょうか。あれは確かに秋風だと思ったのですが勘違いだったのでしょうか。いやいやそうではありません。お母ちゃんなどは、オヤジの敷布を早々と冬物に代えてしまったぐらいですから、皆さんの家庭でも、しまい込んだ夏物を慌て引っ張り出したりしているかもしれませんね。昔は、「晴れのち曇り、所によってはにわか雨や霰、山沿いでは雪が降るかもしれません」しいった、何でもありの天気予報に怒りをぶっつけましたが、今では、天気予報があたったことに怒りを覚えます。