女流歌人 原阿佐緒(その5)
ようやく平穏な生活を取り戻したが、翌年には上京し、酒場勤めを始めている。それは、何不自由なく育った「おごさん」が初めて直面した厳しい社会の現実だった。「かつて知らぬ社会のすがたをもつぶさに見む恐れを感ずわが職業ゆゑに」。映画出演や流行歌の作詞...。さすらうように仕事を渡り歩く阿佐緒を昭和9年(1934年)室戸台風が襲う。高潮は大切にしていた日記や、未発表の短歌を書き留めたノートまでも押し流した。生活に疲れ、「白壁の家」に帰った阿佐緒を、母が迎えた。阿佐緒48歳。老齢の母と共に手ぬぐいをかぶり、草刈りもする。戦争が長引き、日々の暮らしは次第にこんなになっていった。
昭和18年(1943年)12月3日、ひとり旧家を支え続けた母が亡くなる。享年77歳だった。この頃、仙台に住む女流歌人・扇畑利恵と出会う。昭和26年(1951年)、長男千秋の映画製作の失敗により原家の財産のほとんどを失った時、色紙や短冊の頒布会を催し、生活を助けたのも扇畑だった。2人が交わした膨大な手紙からは、扇畑との交流を生きる支えとしていた様子が窺える。昭和29年(1954年)、阿佐緒は宮床を離れ、神奈川県真出町に住む次男保美のもとに居を移した。息子夫婦と孫との穏やかな暮らし。率直な心で歌を書き留めたノートは数十冊にも及んだ。その後、家族と共に東京都杉並区に転居。終の住処となった。
「遠吠えの犬かも山鳩かもと孫に問ひ雨の日を親しみている」。晩年、阿佐緒は「宮床に帰りたいと云い続けた」(『生誕百年記念・原阿佐緒』)という。一度は人手に渡った「白壁の家」が買いもどされ、原阿佐緒記念館としてオープンしたのは、平成2年(1990年)のこと。庭の歌碑には、阿佐緒自身が選んだ歌が刻まれた。「沢蟹をここだ袂に入れもて耳によせきくいきのさやぎを」。小さな沢蟹の「さやぎ」に命を感じる無垢な少女。家に縛られた少女は、流されるように人生を送り、宮床川で遊んだ少女のまま、昭和44年(1969年)2月、長い眠りについた。享年82歳。