迷惑をかけているのは子供たち? それとも親たち?
最近、というよりしばらく前からといった方がいいのでしょうか。公園の使い方について苦情が寄せられることが多いようです。今朝のテレビでは、子供の大縄跳びの話でした。なんでも、子供たちが大勢で大縄跳びをしながら「暗記モノ」の勉強をしている。その声がうるさいと、近くの団地住民から苦情が出ているという。区役所ではこの苦情に答える形で「大縄跳び」を禁止することにしたということでした。人には人それぞれの事情があるので、子供たちの声がうるさいと感じる人がいるのも事実でしょう。しかし、いじめや非行など、悲しい事件が後を絶たない今日、運動しながら、そのリズムに合わせて歴史の勉強をしようと頑張っている子供たちを、うるさいと一括するのはどんなものでしょう。その子供たちは、大きな意味で皆さんたちのお子さんではないのですか? 第一、自分たちも大なり小なり社会に迷惑をかけなが成長してきたわけですし、やがて、そういう子供たちに面倒をかけることになるはずですから、子供たちの声がうるさいぐらい笑ってこらえるくらいの大らかさがあってもよさそうなものではありませんか。
また、役所が大縄跳びを禁止するもう一つに理由として、「営業に関す行為を公園では行ってはいけない」という規定に違反するから、ということですが、学習塾の先生が勉強方法として効果があるからといって奨励しているに過ぎない行為を、営業行為とみなすというのは余りも拡大解釈が過ぎると云ものです。この規定は、公園内で物品の売り買いをしてはいけないという程度のことを指すもので、学習塾の営業行為とみなすのには無理があるように思います。年金では暮らせないので、もう少し上げてもらいたいと言いながら、年金の原資を将来生産するであろう子供たち勉強する声がうるさいというのは、少し身勝手が過ぎるような気がします。ついでに言わせてもらえば、こうした少数の苦情に対して、あまりにも過敏に反応するのではなく、地域住民に対して、社会が子供たちを育てる責任があることを毅然として示すべきです。子供たちは遊びを通して、コミュニケーション能力を培いながら、生きる術を学んでいくものです。そうでなければ、子供たちは、頭でっかちでひ弱な人間にしか育たないでしょう。
少数の意見を尊重するというのも、今の社会においては必要なことでしょう。特にその人が、闘病中だったり、夜勤明けの人もいるかもしれません。そういう人たちにとっては、子供の声はうるさいと感じるでしょう。しかし、一人の意見を尊重するということでいえば、選挙カーのウグイス嬢の声だって、かなりうるさいと感じることもあります。もしこれに苦情を言えば、「それは公共のことだから」と一蹴されることでしょう。しかし、自分の支持する候補者の呼びかけでなければ、大変迷惑なのですが、大事な市政を担う議員を選ぶ選挙なので、それぐらいは我慢しようと思っているだけです。視察という名の観光旅行を公費で行う議員を選ぶために、悲壮感の漂う連呼に耐えるのも義務なら、子供たちを遠巻きに見守るのも大人の義務でしょう。その昔は、村長さん、警察署の署長さん、駅長さん、和尚さん、校長先生が集まって話し合えば、たいていのことは解決したそうです。こうした酸いも甘いも噛み分けた現代版五役はいないものでしょうか。たまには、歯切れのいい大岡裁きを聞きたいものだ、とオヤジがぼやいています。