女流歌人 原阿佐緒(その1)
明治の終わり、平塚らいてうは初の女性文芸誌『青鞜』に「元始、女性は太陽であった」と記した。良妻賢母を求める風潮が根強いなか、女性の社会進出が大きく進んだ大正時代。女流歌人・原阿佐緒は九条武子、柳原白蓮と共に、「大正の三閨秀歌人」として、その才能と美貌を謳われた。数々の男性との悲恋、自殺未遂、結婚、離婚...。波乱万丈の人生ばかりが注目されるが、遺された歌を読み解けば、時代が作り上げた阿佐緒像の陰に、日々の暮らしを懸命に歌へと刻んだひとりの女性の姿が見えてくる。
宮城県大和町宮床に「白壁の家」がある。伝統的な土蔵造りだが洋風で、漆喰の壁は月の光を反射するほど白い。一階には広い土間と板の間、和室、二階には5つの部屋があり、かなりの情熱と資材が傾けられたことがわかる。明治21年(1888年)6月1日、原阿佐緒はこの裕福な家の一人娘として生まれた。原家は「塩屋」の屋号で塩や麹を手広く商う一方、広大な田畑や山林を有し、秋には米を納める小作人たちが門前に列をなした。父幸松は外国人の牧師とも親交をもつクリスチャンで芸術家肌。
母しげは茶道や三味線などを身につけた女丈夫。教育熱心な父のもと、阿佐緒は幼くして生家を離れ、家庭教師と共に転校を繰り返した。12歳の時、阿佐緒は最愛の父との別れを経験する。明治33年(1900年)4月5日、享年35歳の若さだった。一人娘を溺愛した父の遺言は「この子のために全財産を使え」。同年、祖父もこの世を去った。「秋風や父の姿の変わりたる石に額伏せ涙するかな」 仙台宮城県立高等女学校に進学した阿佐緒は、3年生の時、肋膜炎を患い中退。翌年、母は、阿佐緒を連れて上京し、日本女子美術学校に入学させた。本格的に日本画を学び、文学に親しむ平穏な暮らし。だが、またしても肉親の死が影を落とす。