白石城
1867年、大政奉還と王政復古により、政権は徳川幕府から新政府へと移行することになった。翌年の1868年、新政府と旧幕府勢力が、京都の鳥羽・伏見で衝突し、戊辰戦争が勃発した。その年の11月17日に、仙台藩や米沢藩などに会津藩追討令がでる。会津藩は、かつて京都守護職として薩長などの討伐勢力を厳しく取り締まっていたため、新政府から「朝敵」とみなされたのである。仙台藩と米沢藩は出兵の姿勢を取りながらも、会津藩に降伏するよう促す。しかし、会津藩はそれに応じなかった。同年閏4月11日、仙台藩と米沢藩が中心となり、奥羽14藩が白石城において会議を行った。この地で会議が行われたのは、奥羽越列藩同盟の中心となった仙台藩と米沢藩の間にある要衝の地であることと、白石城が仙台藩の軍事拠点であったことが挙げられる。
閏4月20日、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵暗殺事件が起き、事態は悪化。5月6日、奥羽諸藩と北越諸藩は、仙台で「奥羽越列藩同盟」を締結。当初は戦争回避を目指していたが、新政府軍と戦うことになった。7月になると、輪王寺宮が列藩同盟の盟主に、仙台藩の伊達慶邦と米沢藩の上杉斉憲を総督として、奥羽越公議府が白石に置かれた。しかし、8月28日に米沢藩、9月15日に仙台藩が降伏。白石城は新政府に召し上げられ、1874年に解体された。1602年に仙台城の支城となり、以後約二百六十余年もの間、片倉家の居城だった白石城。明治時代に解体されたが、1995年、白石城の天守閣と大手一ノ門、大手二の門が忠実に再現された。天守閣は日本古来の建築様式に基づき、数百年の歳月に耐えられる構造だ。
柱は吉野桧、化粧材は青物桧葉、山陰地方の松丸太、赤杉など、国産の材料が用いられている。木造による復元は、全国的に見ても少ない。かつて、この天守閣は指令の中枢の場であり、見張りの場所や武器や武具の貯蔵庫でもあった。現在は、1階に資料が展示されており、階段で2階、3階へと上がる。それぞれの壁の周囲には「武者走り」がある。武者走りとは、戦闘時に、武具を付けた武士が、武器を持って走り回る廊下のこと。戦国時代の緊張感を、今に伝える場所だ。3階の物見櫓からは、白石の街並みや、連綿とこの地に自然の恵みをもたらしてきた蔵王連峰を眺めることができる。戊辰戦争から150年、忠実に復元された白石城。木造の天守閣から眺める景色は格別な趣がある。