親のすねを齧(かじる)のはほどほどに
先週投稿した「卵が先かニワトリが先か」について、労使双方の方々から意見をいただきました。ボクとしては、オヤジが昨今の働き方改革には、かなり不満を持っているようなので、ちょっと頭を冷やしてもらいたいと思ってアドバイスしただけなのですが、「お前は一体どちらの味方なのか?」とか、「労使の問題は、150年ほど前からあり、抜本的な解決策が未だ見つからない。それなのにお前は!」といったお叱りの声が多く寄せられました。言われてみれば、些か軽口に過ぎたと反省しています。ご指摘のように、ボクは元々労使交渉などについて考えたこともないので、知ったかぶりをするつもりなど全くありません。今回は、オヤジが悩んでいるのを見かねて、「オヤジがいつも言っていること(オヤジの考え方)」を思い出してもらおうと、軽い気持ちで助け舟を出そうと思っただけなのです。ただ、力任せに行動した結果、双方にとって基本となる原資を失ってしまうという過ち(共有の悲劇)を幾度となく見聞きしてきたので、ちょっと口をはさんでしまいました。
例えば、日本人には最もなじみ深い漁獲量の問題などは、その典型です。この問題ももとをただせば、共有の牧草地で、我さきを争い自分が飼育している羊に牧草を食べさせた結果、牧草地を丸坊主にしてしまい、大切な共有財産を無価値なものにしてしまったという歴史的な故事に似ている。ボクが前稿の「卵が先かニワトリが先か」で言いたかったのはこのことなのです。親のすねを齧るのも同じで、たいがいにしないと、アッという間に骨まで齧ってしまい、親の再生力まで奪い、齧りがいのある親のすねは二度ともとに戻ることがない。そうなったときの最大の被害者は齧り手である息子(娘)であり、同時に、その彼(彼女)たちが自らの手でそうした状況に追い込んでしまったのです。ここで、はじめて自分たちの行動の愚かさを知ることになるわけですが、時すでに遅しで、もうやり直しはできません。全動物の中で最も能力が高いと自負する人間が、どうしてこうした過ちを犯し続けているのか、犬のボクには理解できないのです。
もっとも、能力があるから優位に立とうとして駆引きをする。その結果だと考えることもできなくはありませんが、やはり愚かなことには変わりありません。「自己主張をすること」と「他人の立場を理解すること」とは決して矛盾したことではなく、むしろ、自分の立場を理解してもらうためには、他人を理解することが不可欠なのだとは考えられないでしょうか。「そんな青臭いことを、今更お前に言われたくない」と、またお叱りを受けそうですが、解っていても実行できない(しない)のは、解っていないのと同じだとオヤジはよく言っています。共通の目的を達成するために集っているのであれば、それを達成するための知恵を出し合い、それぞれの立場を主張し争うのではなく、目標達成のために競い合うというゲームとして考えてはどうでしょう。そうすれば、そこに公正なルールも生まれるでしょうから、立場を超えてフェアプレーも評価されることになるでしょう。適切なルールがなく、力任せで相手を屈服させると、必ずしっぺ返しを受けます。この代償は計り知れません。