勝画楼(その2)
江戸時代になると、伊達政宗が慶長十二年(1607年)、鹽竈神社の社殿の造営を行った。その棟札の末尾に「法印権大増都照楡」(ほういんごんのだいそうしょうゆ)とあり、法蓮寺が伊達家の承認を得て鹽竈神社を管理していたことがわかる。「塩竈村風土記御用書出」(宮城県史24)によれば、真言宗、一宮御別当、仏殿護摩堂は南向き竪四間・横三間半、本堂は大日如来の木仏坐像で長二尺、脇仏六社仏木仏坐像で長一尺五寸ずつであった。
客殿は南向き、竪十一間・横六間。書院は東向き、竪五間・横三間半、鐘楼は竪二間・横一間半、門は西向きであった。ここからは塩竈浦の景色を一望に見渡すことができる。歴代藩主も鹽竈神社に参詣した際もここで遊覧したという。勝画楼は法蓮寺が廃絶した後は民間に払い下げられ昭和四十年代まで料亭勝画楼として使われました。明治九年(1876年)、明治天皇が東北行幸の際には行在所として使用されました。明治天皇が東北巡行の際にここから松島を眺め「またとない景色だ」と申され、この丘を「萬多奈能岡」と刻まれた石碑があります。
この石碑は鹽竈神社の境内にありますが、ほとんどの人がここを訪れることはありません。そして、時代は移り変わり、風光明媚な場所に建てられている勝画楼は、現在、解体される危機にあります。所有者である鹽竈神社と塩竈市側が、何とかこの由緒ある建物を保存しようと協議してきましたが、調整がつかず解体せざるを得ないという結論に達したということです。付近住民の安全を第一に考えての決定ということなので、やむを得ないのかも知れませんが、市民からも惜しむ声が多く聞かれます。ただ、意匠を凝らした部材など一部は保管するとのことです。
また、この勝画楼のすぐ傍には、幻の灯台といわれる洋式の灯台石組みがあります。この六角形の石組みは幕末の慶応元年(1865年)、仙台藩商人大竹徳治らを中心に建設を進められた洋式灯台の台座です。倒幕のあおりを受けて灯台本体は未完となりましたが、完成していれば日本で最初の洋式灯台で灯火には菜油、外郭部にはギヤマンの板ガラスが用いられる予定だった。台座には、石工十名と人足世話人四名の名が刻まれています。