伊達冠石物語(その1)
宮城県角田市に、山田石販という石屋さんがあります。この石屋さんの初代である山田長蔵は、兵庫県の揖保村(現在の高砂市)から明治20年に仙台に移住してきました。来仙の目的は、大橋、澱橋の建設のためでした。明治に入って、長崎や東京、大阪、横浜などに鉄橋かつくられましたが、新しい鉄橋を建設するため、故郷に縁のあるこの地にやってきました。
実はこの橋、橋の構造部の上の部分はベルギーから輸入した鉄で、下の構造部である橋脚は石でできています。この工事の石の部分に長蔵が関わったというわけです。大阪城の築城を目の当たりにした伊達政宗は、石工たちを八幡町近くに住まわせました。その町が石切町で、今に受け継がれています。そうした背景が大橋、澱橋の建設にはあったのかもしれません。
この橋が完成したのちも、山田長蔵はこの地で石切りの仕事をしていましたが、大正元年に、丸森町館矢間に移り住みました。目的はみかげ石の採出にあったようで、長蔵は仙台方面に出荷していました。大正末期に長蔵は館矢間の西、大倉山で新しい地層を見つけ、ある奇妙な石に遭遇します。その石こそ、数千万年の地球の記憶をとどめた石でした。その石が後に、「伊達冠石」と名付けられたとわけです。