岩出山以前の伊達家(天下統一と政宗)
ここで天下統一前後の秀吉周辺の動きを見ておこう。秀吉が東国に征伐軍を進めることになったのは、北条氏が裁定をくつがえして真田領へ侵攻したことがきっかけだった。そして1590年(天正18年)、小田原城を攻めて北条氏を滅亡させたことにより天下統一を成し遂げる。北条攻めに際して秀吉は諸将に小田原参陣を命じた。もちろん政宗も。1月に発令され、片倉小十郎景綱は参陣を主張するも、結果的に伊達軍が到着したのは6月。この時、白の死装束で現れた逸話は有名だが、遅参の理由を秀吉に詰問された政宗は幽閉されてしまう。
背景には父・輝宗の代から北条家と同盟関係があったこと、北条につくか秀吉に臣従するか決めかねていたとの事情があったと推測されている。政宗は奥羽仕置により攻め取った会津領を没収、福島・山形にまたがる広大な領土を約114万石から約72万石に減封される。その後、秀吉に命じられていったん米沢城へ戻るが、翌年には続発していた大崎・葛西一揆の責任を取らされる形で、さらに58万石まで減封となる。父祖伝来の伊達本領・米沢と米沢城まで没収され、旧大崎・葛西領の岩出山(当時の岩手沢)に移封されることとなり、これが奥州再仕置と呼ばれている。
秀吉が厳しい処置をとった背景には、総無事令違反や小田原遅参以外にも大崎・葛西一揆への内通疑惑、蒲生氏郷との不仲などの情報が耳に入ったからとされる。またこれらの懲罰的理由以外にも、強力な大名の力を削いでおく意味もあったというのが通説となっている。忘れてならないのは、秀吉の天下統一がこの時点で完全に確定していたわけではないということだ。反発する大名(大崎・葛西氏も服従を拒み改易)はまだいたし、寝返るかもしれない強い大名が存在する中、秀吉は決して安閑としていられる状況ではなかった。だから古い家臣は・蒲生氏郷は、奥羽仕置で政宗が奪った芦名の旧領約42万石を新たに拝領、同じく豊臣家臣・木村吉清は大崎・葛西旧領30万石を与えられたものの、その後政宗同様、一揆の責任を問われ改易されている。