一関街道
江戸時代、庶民が「生涯に一度でも」と夢見たのが、人気の寺社詣でと名勝をめぐる旅だった。今の東北では出羽三山、恐山、山寺、金華山、松島などが人気だった。全国に目を向けると伊勢神宮、金刀比羅宮(金毘羅さん)を筆頭に、高野山と熊野三山、日本三景の厳島神社と宮島などがあげられる。その旅は仲間と講を組んだり、金銭に多少余裕があるものは随行者を伴い歩いたりした。生涯に一度の旅となるかもしれないため、筆まめな者は「道中記」を著わした。宿泊先と歩いた距離程度の簡易なものから、毎日の食事、目についた景色や見物先、かかった金銭、感想などを詳しく記したものが庶民の手によりのこされている。平成10年に、岩手県志波町にある水分公民館が発行した『道中記 覚』がある。地元・山王海の組頭を務めていた下ノ屋敷の源之助が著わしたもので、文化7年(1810年)12月15日に出立し約100日間、松島、仙台、鹿島神宮、成田山、江戸、秋葉神社、伊勢神宮、熊野三山、高野山、奈良、京都、大坂、金毘羅宮、宮島、善光寺などをめぐる長丁場の旅だった。
源之助は自宅を出た後、石鳥谷から奥州街道を南下し、一関街道に入った。おそらく松島を見物するためだったと考えられる。一関街道では金沢(かざわ)の隣の宿場、涌津に一泊し、翌日は石巻に宿泊した。源之助が止まったのは食事のつかない木賃宿がほとんどで、持参した米を炊いて、おかずはイワシの目刺しや漬物などで済ませただろう最安値の旅だった。しかし、この本を活字化した村谷喜一郎は解説で州山家の主従にとっての西国は、この世の極楽、補陀落(ふだらく)だったに違いないと」記している。宮城県石巻と岩手県一関を繋いでいた一関街道は、一関側では石巻街道と呼ばれていた。現在の国道45号と342号にほぼ重なるルートだったが、気仙沼街道の起点となっていた金沢から北は、一関に向かう市道に沿っている。一関街道は奥州街道の脇街街道的利用がされていた。仙台で奥州街道と別れ、一関で再び奥州街道に合流するため、仙台から松島を通り平泉を目指す旅人や、一関より北に住む人々が、金華山詣で利用したりした。
街道に沿うようにして北上川が流れていたため、途中の宿場は街道と舟運で賑わったとみられた。また、仙台と石巻を繋ぐ石巻街道の終点であり、気仙浜街道、金華山道、佐沼街道、気仙沼街道のほか、金沢宿と奥州街道の有壁宿と結ぶ脇道が延びるなど、仙台藩や旅人にとって重要路の一つとなっている。歌枕の地をめぐる「奥のほそみち」の旅で、芭蕉と曽良も、仙台~松島~石巻~一関と平泉に向かうにあたりこの道を利用した。芭蕉一行は石巻で一泊した後、一関街道を進み翌日には「戸伊摩」に泊っている。戸伊摩とは現在の登米のことで、宿泊した検断の庄左衛門屋敷は北上川の堤防工事のため残されておらず、「芭蕉翁一宿跡」と彫られた石碑が立てられているのみだ。このほか、街道沿いには芭蕉が通ったことを記念する碑や看板が多数見られ、芭蕉の人気の高さを教えてくれている。