なぜ正宗は、岩出山に移ったのか?
1591年(天正19年)、伊達政宗は家臣団とともに岩出山へ移り、岩出山を居城とすることとなる。政宗はなぜ米沢の地を離れてこの地へやってきたのか。岩出山城や岩出山の歴史に詳しい、大崎市教育委員会文化財課の菊池優子さんに聞いてみた。「政宗は、豊臣秀吉による奥羽再仕置により米沢の領地と米沢城を没収され、代わりに岩出山を与えられました。当時の岩出山は大崎・葛西一揆で荒廃した土地で、政宗にとって予想外、左遷のような印象だったろうと推察されます。なぜ正宗は「仕置」を受けることになったのか。それを知るため秀吉による天下統一前後の背景、岩出山以前の歴史を少しひもといてみよう。
《岩手沢城主・氏家氏と伊達稙宗》
今の岩出山はもともとは岩手沢という地名で、古くから周辺一帯は玉造と呼ばれた。玉造とは元来、大和朝廷で装身具の玉類を造った集団を指していた。また岩手沢は産金の盛んな土地でもあった。「金売吉次」の通称で知られる三条吉次は、奥州藤原氏のもと陸奥国でとれた金を京で売り、莫大な利益を得た人物である。岩出山には吉次が隊商を引き連れて通ったとされる吉次街道が数か所あり、この周辺でも砂金を取っていたと考えられている。そして政宗入府前、この地には岩手沢城があった。岩手沢城は政宗が新たに築いた城ではなく、さらには城の改修を行ったのも政宗ではない。
政宗以前の岩手沢城主は氏家氏だった。氏家重定が岩手沢城の城郭をととのえ、1349年(貞和5年)に氏家詮継(あきつぐ)が入城している。一帯を支配する大崎氏の重臣だった氏家氏だが、地位を利用して岩手沢を拠点に次々と城を奪いとっていき、玉造から加美・志田・栗原までその領土を広げていた。業を煮やした主君の大崎義直は1546年(天文15年)、伊達稙宗に応援を要請する。政宗の祖父にあたる人物である。請われて米沢から岩手沢へ大軍を進めた稙宗だったが、敵の氏家氏を打ち破ることができず、のちに和睦を結ぶことになる。ここに岩出山と伊達家の関わりが生まれている。