岩出山以前の伊達家(政宗の誕生)
戦国時代も末期の1567年(永禄10年)、政宗は米沢城に生まれた。父は輝宗、母は最上義守の娘・義姫で、幼名は梵天丸。幼少期にほうそうを患い片目を失うが、隻眼とその果断さから独眼竜の異名を持つ。11歳の元服時、武威を誇った先祖9世の諱(いみな)をとって政宗と改め、13歳で福島の三春城主・田村清顕の娘・愛姫と結婚する。初陣は15歳の時、父・輝宗にしたがって、亘理に攻め入ってきた相馬義胤との戦いだ。18歳で家督となるが、輝宗が、隠居した翌年1584年(天正12年)、畠山義継の計略で殺害されてしまう。苦戦しながら畠山氏を滅亡させ、その後輝宗を米沢の資福寺に葬っている。
のちに政宗の領地となる大崎の地でも、大崎氏と氏家氏の対立が激しさを増していた。菊地さんは「当時の大崎は、山形の最上と手を組んだ大崎氏と、伊達に助けを求めた氏家氏という対立の構図でした」と語る。1587年(天正15年)、秀吉による総無事令が関東・奥州に出される(九州はその2年前)。これは大名たちの領土争いを禁止するもので、違反には豊臣政権が厳しく処するというもの。伊達政宗、最上義光、南部信直らがこれに従い帰順することになった。この総無事令が天下統一の布石となる。秀吉は関白で、あくまで天皇による命令の形をとっていたが、実質的には秀吉に絶対服従とのルールができたことになるからだ。
そんな情勢の中、政宗は氏家弾正吉継に請われて出陣するも、大崎氏の逆襲にあって大敗、その後、和議が成立している。そして1580年(天正17年)、のちの米沢領没収につながるいくさが起こる。政宗が総無事令を無視して会津の葦名氏を攻め、磐梯山麓の摺上原の戦いで破ることで、相馬氏、白河氏など福島県下のほとんどの武将を降伏させることになったのである。政宗は攻め落とした黒川城(会津若松城)へ居城を移し、約150万石の領国を有する南奥州の覇者となる。しかし、この総無事令違反により大きな代償を払わされることとなる。