誰がネコの首に鈴をつけるか
ネズミたちは、猫の首に鈴をつければ、自分たちは安泰で、今よりはるかに長生きができる。この点ではネズミたちの意見は一致したが、問題は誰がネコの首に鈴をつけるかで意見がまとまらなかった。これは西洋の有名な童話の一説ですが、人間社会でもむずかしい問題解決策を議論するときにしばしば登場します。つまり、「ネコの首に鈴をつければ、ネコが動くたびに首の鈴が鳴るので、ネズミはその音が聞こえたら速やかに逃げられるので、大変良いことという点ではほぼ全員のネズミはこの案に賛成するはずですが、実際問題として、誰が危険を冒してネコの首に鈴をつけに行くかです。自分以外のネズミが志願して強行するのであれば、失敗して返り討ちにあったとして自分は心も体も傷まないから、これには大賛成だが、その役が自分に振られたら、丁重にお断りをするというわけです。すなわち、どのネズミも自ら危険を冒し、みんなのためになるとはいえ、自ら生け贄になる役を買って出るようなネズミはいないということです。
また、岡目八目といって、将棋や囲碁の対局をよそから眺めていると、熱くなっている当事者よりも8手も先が見えるらしい。この話とネコの鈴の話は直接関係ありませんが、どちらも「無責任」という言葉が隠れているような気がします。つまり、「それなら、お前がやれ」といわれたら、たちまち首をすくめて逃げ出してしまうに違いないからです。これがテレビを前にしたおじさんの迷監督ぶりなら、まだ可愛いいが、本物の監督が選手にとんでもない指示をしたり、会社の上司が部下に過大なノルマを課すという話になると、"おまえがやれ!"と叫びたくなっても不思議ではありません。つまり、人間もネズミも、自分のために命懸けで戦ってくれる他者には、厳しい注文をつけたり、過大な期待をするのは得意ですが、自分がその役を買って出ることには極めて消極的なのです。しかし、自分たちの選んだリーダーがあまりにも、期待外れであると多くの者が感じたときには、誰が仕掛けるというわけでもないが、大きなうねりとなって逆襲に転じることもあります。
ボクもオヤジもこうした大衆の中に埋もれている一人なので、偉そうなことは言えませんが、選ばれたリーダーといえども、やはり、大衆の中の一人であることには間違いないわけですから、かなり志の高い人がリーダーになったとしても、大衆のエゴに応えきれるはずもなく、「最大多数の最大幸福」とは「大衆の不満が臨界点に達しないようにコントロールすること」だと、勘違いしてしまうようになる。さらには、それがいつの間にか、「一定の支持率を保つこと」と同化するに至り、「支持率保持」こそが、リーダーの最重要課題となり、一般大衆のささやかな願いとは乖離してしまう。これが、昨今話題になっている組織を巡る制度疲労の実態であるように思われてなりません。あいにくこうした制度疲労を解消する抜本的な改革案は持ち合わせていませんが、今まで普通の人だった者が、ひとたびリーダーになると、自分の能力や品格まで上がったと勘違してしまい、やがて「余人をもって代えがたい人材である」と自画自賛するようになる。これはとても見苦しい。