自分らしさを確かめるとき
長年一緒に暮らしていると、同じ食べ物を食べ、同じ空気を吸い、世間との間の利害関係もほぼ一緒になってくる。最初のころは、それぞれの家のしきたりや習慣を自慢しあい、できれば自分のペースに引き込もうとするが、やがて、運命共同体が形成され、自分たち独自のやり方が確立されてくる。普段の生活には、この不文律がガイドラインとなり、これに沿って行動するので、あまり対立は起こらない。しかし、家族といえども所詮は他人、時には、同じ尺度で物ごとを測り、意思決定をするという行動パターンにふと疑問を持つことがある。このようなとき、あえて、外れた行動をとってみることで相手の反応を見たいという衝動に駆られることもある。その心は、相手がおざなりな態度をとるのか、もしかして、その意図が伝わり、安全・安心な空気のありがたみを確認しあえるよい機会が生まれることを、期待しているのか。いずれにしても、こうした試みは思わぬ収穫をもたらすこともあるので、その背後にある隠れたサインを見逃さないようにしなければならない。
わが家のお母ちゃんは、よくオヤジに、テレビなどで伝えられるニュースについて、自分の意見(考え方)を述べ、オヤジに対して、「どう思う」と振ることが多い。これなども、単純に意見を求めているようにも見えるが、その実、オヤジの真剣な向き合いかたを試しているのです。お母ちゃんにして見れば、自分と違う考えである場合、少しはがっかりしますが、でも、真摯にコメントしてくれたことにはかなり加点しているようです。また、二人の考え方が全く相いれない場合もあります。例えば、お母ちゃんがテレビを見ていて、甲子園に初出場したチームが破れ、取材を受けた地元の女性が涙を流していたのを見て、「泣くほどのことではないと思うのだけど!」と呟き、例によって、「どう思う」とオヤジに聞いていました。するとオヤジは、「それほど感激したということだろう。人はそれぞれだから」と返しました。この時オヤジは、幼いころ、十円玉を側溝に落とし三日三晩悔しくて泣き通したことを思い出していたようです。つまり、泣くようなことかどうかは、他人にはわからないといいたかったのでしょう。
ただ、こうした考え方の違いは、人生観の決定的な違いでは決してないということをオヤジは強調しています。例えば、休日に二人で出かけたとき、帰りにある大型量販店に立ち寄りました。お母ちゃんがレジで支払いを済ませ、車に乗ろうとしたとき、オヤジにこう言いました。「お客さんの話を聞くとはなしに聞いていると、面白いことをいう。」と切り出しました。それは、「旦那と一緒に買い物に来ると、今まで一緒にいたのに、レジに向かおうとすると急にいなくなる」と話していたというのです。さらにお母ちゃんは「うちとおんなじね!」とダメ押ししました。お母ちゃんにして見れば、レジで精算するときに多少でも協力してもらえれば、その分家計が潤うので、リッチな気持ちになれる。それを「清算はあんたの役割」というような態度が、少し(本当は相当)気に入らなかったのかもしれません。でも、この前の立て替え分はどうなっているんだ?というところでしょう。これは、決してお互いに強欲なのでもケチなのでもなく、過ぎたことは、理性で、目の前のことは感情で計算するという人間の特性によるものだそうです。