有備館
江戸末期になると、改革の機運はますます高まり、藩の最高学府となる藩校以外にも、学校が設けられるようになっていった。仙台藩家臣である岩出山伊達家が開設した郷学(ごうがく:学問所)・有備館。長く儒学稽古場として使われていたが、10代邦直が党首を務める嘉永3年(1850年)頃、岩出山城北側に郷学として開校した。有備館では岩出山伊達家の家臣・子弟が儒学を学んでいたが、生徒数や詳しい教育内容などは解っていない。督学(校長)を務めた伊藤東溟や東溟に学び北海道に移住した鵙目貫一郎など、わずか数名の足跡がわかるだけ。
何時の時代か、実際の教官舎があった建物は失われてしまったが、当主専用の建物である御改所と家臣の控えの間などに使われた付属屋が現存している。御改所では当主が講義を聞いたり、学生に口頭試問を行ったりした。戊辰戦争後の明治2年(1869年)、岩出山城は取り壊され、岩出山伊達家の人々は有備館に移り住んだ。その後、10代邦直は北海道当別に開拓移住したが、親族を残して、代々有備館を守り続けた。昭和8年(1933年)建物と庭園は「旧有備館および庭園」として国の史跡および名勝に指定され、昭和45年(1970年)に岩出山伊達家から岩出山町(現大崎市)に移管された後、一般公開された。
地域の人々にとって身近な存在だった郷学・有備館。近所の人たちは凍った池でスケートをしたりして楽しんだ。「明治時代、祖父が有備館でそろばんを習った」と話す隣町の人もいたという。郷学で学ぶ若者たちが目にした庭は、開校以来、ほとんど変わらぬ姿を今に伝える。ただ、鳥や風が種を運び、人々が手入れすることで、木々が伸び、草花が枯れて芽生えて庭を育てた。有備館には四季折々に訪れ、縁側に座って長い間庭を眺める人がいる。それは人と自然が織り上げた空間が、心地いい時を贈るからだろう。