歌枕の国 陸奥・多賀城(その1)
東北本線の国府多賀城駅で降り、北に少し歩くと低い丘が広がる。ここが奈良・平安時代、陸奥国の国府が置かれた多賀城跡。築かれたのは724年で、平安時代にその終焉を迎えるまでの約300年、古代東北の中心地だったところだ。奈良の平城宮跡、福岡県の太宰府跡とともに日本三大史跡の一つであり、今も四方約1㎞にわたって、囲んでいた築地跡をはじめさまざまな痕跡を見ることができる。門は南・西・東にあり、南に開かれた門は都人を迎える入口だったのだろう。
都人の中には、当時の名高い風流人も多かった。例えば、日本初の和歌集「万葉集」を代表する歌人・大伴家持もその一人。家持は歌人であるとともに武人でもあり、782年に陸奥按察使鎮守守将軍を任じられ、この地に来て、そしてここで没している。842年には古今和歌集に名を連ねる小野篁が、905年には後拾遺和歌集などに和歌を残した藤原実方が、陸奥守としてこの地に関わりをもった。こうして都の風流人が多賀城に来て、みちのくの美しさを歌にして都へ送ることにより、「歌枕の国 陸奥」が生まれていったのだという。
時を超えて、みちのくへの旅は風雅と憧憬の旅となり、平安時代には能因法師、その100年後に西行法師、その550年後には松尾芭蕉が歌枕を訪ねる旅へという流れをつくりだしていったようだ。南門跡の小高い丘には、覆堂の中に多賀城碑、別称 壺碑がある。西行が「陸奥のおくゆかしくぞ おほゆる 壺のいしぶみ外の浜風」と詠み、芭蕉が奥の細道の行脚の旅で「疑なき千歳の記念・泪も落つるばかり」に感動したという碑だ。石には多賀城の位置、創建と修造のことが141の文字で刻まれ、最後の碑建立は天平宝字6(762)年と記されている。約1300年前の碑が克明に読めるのも、途中900年の間、地面に倒れていたため表面が風化を免れたおかげという。