平安時代の宮城(その1)
阿弖流為の降伏により、胆沢城を造営した朝廷の支配は岩手県と秋田県の中央周辺まで広がった。一見、争いは落ち着きを見せたように思えたが、胆沢鎮守府を中心に奥六郡(岩手県北上川流域)を治めていた安倍頼時(あべのよりとき)は広い地域で権力を示し、多賀国府と対立することになった。
1051年、安倍氏と陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)の間でついに大規模な戦いが起きる。これが前九年合戦の始まりである。この時、亘理郡の有力豪族・藤原経清(ふじわらのつねきよ)は、安倍氏とともに戦った。当初、安倍氏優勢の戦いだったが、出羽国の豪族・清原氏が朝廷軍側に従ったことにより、安倍氏は滅亡してしまう。
この戦いにより、藤原経清は命を落とし、後に奥州藤原氏の祖となる藤原清衡(ふじわらきよひら)は清原氏として育てられた。その後、後三年合戦でまたしても家族を失った清衡は、奥州平泉の地で、平和な国つくりを実現しようとした。