鯛と波頭 笹かまぼこ販売一筋五十年
株式会社 すゞき物産
トップページへ
商品案内
会社案内
リンク
 店長の blog
<   2016年5月
日 月 火 水 木 金 土
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

  • おかいもの
  • ちょっと一言
  • みやぎの見所
  • わが家のムサシ
  • イベント情報
  • オープンご挨拶
  • キャンペーンご案内
  • ホットな出会い
  • 一期一会
  • 今日のお客様
  • 大震災
  • 熊本地震
  • 美味しいもの情報

招き猫
powered by Movable Type Movable Type 5.2.10

<<奈良・平安時代の宮城(その3) | ブログTOP | 明日で5月も終わり >>

平安時代の宮城(その1)

阿弖流為の降伏により、胆沢城を造営した朝廷の支配は岩手県と秋田県の中央周辺まで広がった。一見、争いは落ち着きを見せたように思えたが、胆沢鎮守府を中心に奥六郡(岩手県北上川流域)を治めていた安倍頼時(あべのよりとき)は広い地域で権力を示し、多賀国府と対立することになった。

 

1051年、安倍氏と陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)の間でついに大規模な戦いが起きる。これが前九年合戦の始まりである。この時、亘理郡の有力豪族・藤原経清(ふじわらのつねきよ)は、安倍氏とともに戦った。当初、安倍氏優勢の戦いだったが、出羽国の豪族・清原氏が朝廷軍側に従ったことにより、安倍氏は滅亡してしまう。

 

この戦いにより、藤原経清は命を落とし、後に奥州藤原氏の祖となる藤原清衡(ふじわらきよひら)は清原氏として育てられた。その後、後三年合戦でまたしても家族を失った清衡は、奥州平泉の地で、平和な国つくりを実現しようとした。

投稿者: みやげもの店主 | 日時: 2016年5月27日 09:13 | カテゴリ: みやぎの見所

■コメントを投稿

いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。



※スタイル用のHTMLタグが使えます