杜の都仙台
仙台の町は、1601年、伊達政宗が岩出山から仙台へ居城を移したことに始まります。仙台城は、以前「千代城」として、この地を治めていた国分氏の居城でした。入城に当り政宗は大規模な増改築を施し、完成までにおよそ10年の年月をかけました。当時の城下は開かれた地ではなく、荒れ地が目立っていた。政宗は武家屋敷地区や町人町地区、商業の要となる大町通りなどを次々に整備し、現在の仙台市中心部の基礎を築きました。当時の城下町の中心は現在の仙台市の青葉区大町の芭蕉の辻であり、そこには碑が建てられています。
仙台城から大橋を渡って広瀬川を越え東に向かう通りと、奥州街道と交わる要所で、正宗はここを中心に定め、碁盤目状に土地の区画をまとめていきました。仙台藩の高札場があったこの芭蕉の辻は、明治以降は卸売業や小売業などが集まり、経済の中心として栄えましたが、戦後の流通事情の変化により、その面影は次第に失われていきました。1628年、正宗は若林城を造営し、ここに生活の拠点を置くようになりました。現在、城跡は宮城刑務所となっており、この一帯には「古城(ふるじろ)」という地名が残っています。
仙台が杜の都と呼ばれる由縁は、伊達政宗の時代にさかのぼります。政宗は、家臣に建材や防風林・防雪林として杉や松の木、食用として栗や梅、柿などの木を屋敷内に植えることを奨励しました。そのため、仙台藩は武家屋敷の林や神社仏閣に木々が茂る緑豊かな町が形成されていきました。武家屋敷は、明治維新後も住宅として形を残し、仙台は街のにぎわいと木々が融合した美しい街並みを築いていくことになりました。
さらに、公園の整備や、商家・大内屋源太右衛門による南町通の街路樹などを経て、明治時代にはすでに「森の都」と表現した観光案内図が作られています。その風景は昭和20年の仙台大空襲で多くが失われました。しかし、一度は焼け野原となっても、市民の「杜の都」への強い思いは失われることなく、緑豊かな町へと復興していきます。青葉通や定禅寺通などの美しい景観は、藩政時代から続く仙台の誇りです。