奈良・平安時代の宮城(その1)
都では645年から大化の改新が始まり、このころから、大和朝廷は中央集権的な政治を目指したが、東北地方北部までは支配することができなかった。中央政権は支配外の東北の人々を野蛮な民族という意味を込めて「蝦夷」と呼び、友好的な交流や武力による争いを重ねて支配する動きを強めていった。7世紀後半から朝廷は東北を陸奥国とし、東北各地に城柵を置くようになる。
陸奥国は、現在の東北地方南部太平洋側の広大なエリアにあり、農業や漁業を営む人々が暮らしていた。大化の改新後、現在の仙台市太白区郡山に多賀城の前身となる役所が設置された。その後、724年、仙台平野を一望でき、港にも近いため、交通の要として重要だった地に城柵が築かれる。これが国府多賀城の始まりである。多賀城は一辺900mのゆがんだ地形で、周囲を高さ4ないし5mの塀で囲まれていた。
塀の回りには80mおきに櫓があったことがわかっている。これは多賀城が役所としての性格に加え、蝦夷との争いにおける軍事拠点としての役割を果たしていたことを象徴する構造である。多賀城は、「西の大宰府、東の多賀城」と呼ばれるほど、重要な統治の拠点とされていた。敷地内では、政務や儀式のほか、食事の準備、武具・武器類の製作など様々な仕事が行われていたと見られ、千人を超える人が集められていた。
多賀城の周辺は国司や役人、城内で仕事をする人々が住居を構え、道路を整備した賑やかな街並みが形成された。多賀城の街並みが発見された山王遺跡からは、木製の生活用具や金属製の道具の他、祭りで使われる灯明皿、地鎮の土器、占いで使用した骨などが出土している。多賀城の付属寺院である多賀城廃寺は、とう金堂院の配置などが大宰府の観世音寺と全く同じものである。瓦類や須恵器などの土器類、泥塔などが多数出土している。