縄文・古墳時代の宮城
移動しながら生活していた旧石器時代を経て、縄文時代の人々は、三陸の豊かな海の恩恵を受け、沿岸部を中心に小さな「ムラ」を形成していった。その暮らしの片鱗は、気仙沼市や石巻市、松島町などの貝塚で知ることができる。貝塚からは、縄文人が捨てたアワビやマグロの骨などが出土し、海産物を食料としていた当時の暮らしぶりが分かる。驚くべきことに縄文時代にはすでに高度な漆の技術があった。弓や土器、腕輪、くしなど様々な物に漆が施され、美しい品を創り出していた。
紀元前4世紀以降、中国大陸から日本に稲作農耕技術や金属器、機織りの技術が伝わり、弥生時代を迎えた。福岡の遠賀川(おんががわ)流域の影響を受けた遠賀川系土器が仙台平野で出土している。このことから、遠く九州の人々と東北との交流・文化の広がりがあったと考えられる。4世紀に入り、県内では全長50mを超える大型古墳が出現する。仙台市の遠見塚古墳は全長110m、高さ6.5mの巨大な前方後円墳であり、平野部の村を支配していた豪族の出現を表している。
さらに名取平野の雷神山(らいじんやま)古墳は遠見塚古墳の勢力を引き継いだ王者の墓と考えられ、東北最大の大きさを誇る。ほかにも県南を中心に、各地に約30基の大型古墳が発見されている。近年見つかった山元町の合戦原(かっせんはら)遺跡からは6基の古墳と54基の横穴墓群が発掘された。横穴墓とは、斜面や岩盤に水平方向へ穴を掘った埋葬施設で、有力な一族が埋葬されたものだ。ここからは、壁に描かれた線刻画、金メッキが施された銅製の馬具や刀などが出土した。