奈良・平安時代の宮城(その3)
奥州を拠点に大きな権力を誇っていた阿弖流為(あてるい)は、最も中央政府軍を苦戦させた蝦夷のリーダーである。そのライバルが征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)だった。789年、中央政府は5万人の大軍で胆沢(いざわ)地方(岩手県奥州市)へ攻め入った。
阿弖流為は、土地の形状を生かした戦術で政府軍を攻撃し、主力部隊を壊滅させるまでに至った。その活躍は「続日本記」や「日本記略」に記されているほどである。その後も政府軍と戦いを続けた阿弖流為であったが、802年、ついに坂上田村麻呂に降伏。砦麻呂の反乱以降20年以上続いた蝦夷と中央政府の激しい戦いはここで終焉を迎えることになった。
阿弖流為をはじめとした蝦夷軍が使っていた刀は蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれ、日本刀の起源となったものである。大和朝廷軍の直刀という武器に比べ、蕨手刀は柄や刀身に反りを加えることで鋭い切れ味を持っていた。大和朝廷の兵士を脅かした蝦夷の刀は、日本刀の原型として高い評価を受けていたのだった。