奈良・平安時代の宮城(その2)
当時の東北地方は、現在の涌谷町で日本初の黄金が算出されたことや、良馬の産地、北部との交易地として魅力的な地であり、中央政府はぜひとも支配下に治めたいと考えていた。海岸部に桃生城、内陸部に伊治城(これはりじょう)、出羽国内部に雄勝城(おがちじよう)を造り、宮城県北部から岩手県へと着実に支配の拡大を進めていったが、一方では、政府の強引な支配への反発を感じていた蝦夷との対立がどんどん深まっていく。
中央政府と蝦夷の激しく、長い争いは「東北38年戦争」と呼ばれている。8世紀後半、朝廷の役人殺害など蝦夷による反乱が相次いだ。中でも伊治公砦麻呂(これはりのきみあざまろ)は、郡司として朝廷に協力する役人だったが、蝦夷に対する朝廷の差別的な態度に反旗を翻した一人だった。780年、砦麻呂は按察使(あぜら)紀広純(きのひろずみ)の命を奪った。その数日後、多賀城が蝦夷により放火され、焼き尽くされるという事件が起こる。
砦麻呂の事件に大きな衝撃を受けた朝廷は兵を派遣し、討伐を試みたが、蝦夷の強い反発に苦戦が続いていた。なお、伊治公砦麻呂の「伊治」は栗原の地名の由来である。かつては「いじ」とされていたが、近年の研究により、「伊治」を「此治」と記す資料などから、「コレハリ」と読むと考えられるようになった。伊治城があった地には767年に栗原郡が置かれた。これは「コレハリ」が転じて「クリハラ」となったことを示すものである。