多賀城碑(壺碑)
多賀城市には奈良時代に造られた「多賀城碑」という石碑があります。壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれるこの石碑は、政庁跡の小高い丘を下りたところの小さな堂の中に安置されているもので、高さ248㎝、最大幅103㎝、字数は11行、140字です。発掘調査や多賀城碑の研究結果などから、現在では神亀元年(724年)に建てられたものではないかと考えられています。
その内容は、奈良の平安京、蝦夷国、常陸国、下野国、そして謎の靺鞨(まつかつ)国から多賀城までの距離行程を記した前半部と、大野東人によって設置され、恵美朝獦(あさかり)によって修復された後半部からなっています。碑には謎が多く、なぜ海の向こうの靺鞨国をわざわざ記したのか。蝦夷国という国も公には存在していない。また、碑の上部に記した「西」は何を意味するのか。
さらには、宝亀11年の伊治公砦麻呂の反乱で焼失した際、なぜ焼き討ちの破壊からまぬがれることができたのか。碑は東北の歴史の深さを物語る生きた証人ともいうべきものです。多賀城はこの焼失後、まもなく再建されますが、延歴21年(802年)、鎮守府が坂上田村麻呂によって胆沢城(岩手県奥州市)に移されましたが、その後も国府の役割を果たしていました。しかし、多賀城の名は正史上で確認できなくなり、やがて、「多賀城国府」の名が現れるようになります。