白いSOS
大震災直後の13日、河北新報に「屋上のSOS」という記事が載っていました。記事を読んでみるとその学校は石巻市立大街道小学校でした。この学校は子供たちみんなが卒業したところで、孫たちも現在3人通っています。震災が起きた午後2時46分には学校にいたわけですから、当然ここに取り残された形になったということです。
ところが、その時避難生活についてあまり実感がわきませんでした。たぶん、自分たちの避難生活を基準に考えていたからなのでしょうが、記事を読んでいるうちにその悲惨な状況が実感できるようになりました。石巻工業港から北へ1キロの所に位置する学校の周辺は海水に沈み、3階に避難した住民や先生、児童たち600人が孤立状態に陥ったのです。
先生たちが起点をきかせて、B4判のコピー用紙をもってきて、SOSの文字を屋上に描きました。後で直接きいてみたところ、最初の2日間は殆どのまず食わずで、ようやく配られた1本のバナナを4人で分けあったということでした。19日になってようやく自衛隊員がおにぎりとお湯を運んできた時には、拍手が湧き上がったということです。