清くなくても正しく生きられる
本来ならば、清く正しく生きるというのが王道なのでしょうが、人生にはそうばかりもいかない場面が何度かあるものです。戦時中にヤミ米を食べてはならんというお上の達しを守り、栄養失調で命を落とした人が結構いました。オヤジの両親は、食べ盛りの子どもたちを育てるために、この掟を破りヤミ米をあらゆるところから調達して、命をつないだということです。悪いことをしてはいけませんよ! と、子供を戒めるのが親の務めですが、時と場合によっては、法を犯してでも家族を守るというのは、清いとは言い難いかもしれませんが、正しい選択であるとオヤジは言います。だいぶ古い話ですが、ある著名な文化人が、テレビ番組に出演した際、こんなことを言っていました。「私は、子供たちに何らかの事情でお金が無くなり、空腹で倒れそうになったら、お店屋さんでパンを万引きしなさい。そうすれば警察に逮捕されて家に連絡されるので、そしたらお母さんがすぐに駆け付けパンの代金を支払い、お詫びをしますから!」というものでした。もちろん今のようにスマホなどがない時代の話です。
こうした行為がいわゆる緊急避難に当たるかどうかはわかりませんが、生きるための知恵であるというべきかもしれません。いま世界中にまん延しているコロナウィルスで、医療機関が崩壊するという局面では、中々すぐに病院で診てもらえないという状況に陥りました。しかし、37.5度以上の熱が4日以上続いたら医療機関を受診するようにという規定は、感染した人によって、症状はそれぞれですから、耐えられない人もいたに違いありません。原則は守るのが当然とはいえ、病状が悪化したにも関わらず、手遅れになった人もいるかもしれません。そうなってしまっては元も子もないでしょう。命を落とすようなことを必要以上に我慢することが"清く正しいこと"でしようか? オヤジに言わせれば、「清いかもしれないが正しくはない」ということになりそうです。自分や家族などが命の危険にさらされたとき、清く正しい生きることを命より優先するのは、決して正しいことではありません。本当に正しいことは、人の命を守るためにとる行動を迷わず選択することです。我慢強いのとは本質的に違うと思います。
他に良い方法が見つからなければ、その時点で、まず、自分の命を守る行動をとるのは正しい選択です。ただし、そうした選択をせざるを得な状態から解放されれば、自分の命を守るために犠牲になった人々に対する畏敬の念を忘れず、形を変えて社会に恩返しをするという姿勢は必要でしょう。ただ、この姿勢を誰がどういう基準でどう評価するかは解らないので、難しい問題であることは確かです。いずれにしても、今は緊急事態宣言下で、どう生き抜くかという解のない生き方を個々人で模索しなければならない時期です。したたかな生き方の中にこそ、正しい生き方があると信じて行動しても、決して恥じることはないと思うのです。というよりも、生きることを最優先にして生き残った者の生き方が、正しい生き方だった評価すべきでしょう。対策の遅れをあれほど批判してきた諸外国が、今になって日本のコロナ感染防止策は、軌跡だと評価している。非科学的な方法が科学的に優れているとは誰も言わない。でもこれが現実、いやこれこそが奇跡だ。