からす組隊長 細谷十太夫(その2「 からす組」の誕生)
十太夫は幼い時、父と母を失い貧困の中で育ち、ろくろく教育も受けられず山野を駆け巡り、9歳の時には寺小姓にだされた。その後家督を継ぎ剣道や弓道を習うが腕は一向に上がらず、藩の役人となるもののまともな書面も書けず周りから疎まれていた。そんな時、京都御所の警備兵として選ばれ、元治元年(1864年)上洛して下立売御門の警備に就いた。京では過激な浪士たちが勤王の志士と自称して、倒幕を唱えながら盗みや殺人など乱暴狼藉を働いていた。6月には池田屋事件があり、7月には長州兵と薩摩兵が戦うなど乱れていた。
その翌年の正月3日のことである。四条通りの芝居小屋で「伽羅仙台萩」が興行され評判をとっていた。これを聞いた十太夫は、史実を誤り伊達家の名誉を棄損するものと憤慨し、興行中の小屋をメチャクチャに打ち壊した。そのため京都所司代に突き出され一夜取り調べを受けている。郷土への誇りが極めて高かったものと思われる。間もなく仙台へ帰され、石巻鋳銭場の役人を命ぜられた。たが、戊辰戦争が起こって奥羽の雲行きが怪しくなると、十太夫はいても立ってもいられなくなった。藩存亡の分かれる時として、近隣各藩の情勢探索を申し出て、土方の身なりをして山形城下と米沢藩の動静を探った。
それを聞いた仙台藩主伊達慶邦公よりじきじきに、相馬、白河、水戸、会津、二本松方面の軍事偵察を命じられ、今度は孫太郎虫売りに身を変えて探索をし、緊迫する情勢を急ぎ戻って報告した。さらに江戸の状況偵察を命じられて郡山本陣まで来ると、5月1日の白河戦争で敗れた仙台藩士らの敗残兵であふれており、これを追って新政府軍が続々北上してくるところに出会った。十太夫はこの状況を危ぶんで江戸行きを取りやめ、何か反撃せねばと考えながらそば屋へ入った。すると、密偵として歩いた頃顔見知りになった二人の博徒に出会った。