からす組隊長 細谷十太夫(その1 戊辰戦争勃発)
嘉永6年(1853年)、米国艦隊が浦賀沖に現れた。いわゆる黒船来航である。ペリー提督は幕府に開国を強硬に迫ったので、国中で開国か鎖国攘夷かと政権の対立が激しくなった。日本の独立を守るため、多数決と公論による新政権樹立を目指していた孝明天皇と将軍徳川家茂が、成立寸前のところで相次ぎ変死した。幕府は新政権を目指して大政奉還したが、軍事倒幕を目指す公家の岩倉具視と西郷隆盛(薩摩藩)、高杉晋作(長州藩)らは、慶応3年(1867年)12月、「王政復古」のクーデターを起こして維新政府を樹立した。ペリー来航から15年目のことである。
新政府の実権を握った薩長は、翌慶応4年1月3日、鳥羽・伏見で旧幕府軍との戦闘を起こすと、錦旗など天皇の権威を利用して勝を収め、直ちに軍勢を進め、4月には江戸城を接収した。すかさず新政府軍は朝敵とした会津藩征討のため、およそ211藩12万人の軍を奥羽越に送り込んできた。しかし、会津藩に朝敵とされる理由はなく、仙台藩は、これは薩長の私怨戦であるとして、会津藩を守るために立ち上がった。奥羽と北越の31藩で「奥羽越列藩同盟」を結成し、すべての藩が一つにまとまって戦いに臨んだ。
5月1日の白河城攻防で奥羽戊辰戦争の戦端が開かれ、同盟側は31藩5万人の意を繰り出して、5カ月にも及ぶ熾烈な戦争となる。同盟軍は善戦するものの、近代戦争を経験し銃砲に優る新政府軍に苦戦を強いられた。白河城の熾烈な攻防戦に、細谷十太夫の率いる「からす組」(烏組とも)が現れた。全員が黒装束を身にまとったからす組は、神出鬼没夜襲のゲリラ戦で30戦して負けを知らず、新政府軍から最も怖れられた。隊長の十太夫はどの戦いでも先鋒となって戦い、その精強さに細谷烏と称され、最後まで新政府軍に抵抗して戦い抜いた。この時29歳、背丈は156センチと小兵で、役者のような細面の美形であった。