お母ちゃんのストレートな物言い
昨今、新聞やテレビで話題になっている力士の暴行問題。「ぐずぐずしないで、お互いに言いたいことをはっきり言えばいいじゃない。そうすれば、こんなにこじれることは無かったのに!」というのがお母ちゃん意見です。一方、オヤジは頼まれてもいないのに、解説者気取りで立場の違いなどについてあれこれ説明しています。しかし、基本的にはお母ちゃんの意見と同じで、そこが似たもの夫婦というものなのでしょうね。とにかく、二人とも、今の状況をじれったいと思っていることは確かです。ボクもこの家の一員ですから、同調する点は多々ありますが、強いて言わせてもらえば、村(一門)の利益を優先する社会が築かれ、そこでの論理が率直なコミュニケーションを拒んできたもので、一気に一般論を持ち出しても抜本的な解決策を見つけるのは難しいように思うのです。
もちろん、お相撲さんといえども、我々と同じ現代社会の中で暮らしているわけですから、不合理な慣習を認めるわけにはいかないでしょう。そうはいうものの、本場所の千秋楽で、優勝者に賜杯を贈るとき、今でも女性を土俵に上げないという習慣が厳格に守られています。野次馬の僕としては、もしも女性の総理大臣が誕生したらどうなのか?などといらぬ心配をしてしまいます。伝統を重んじることと、男女平等をうたった憲法とがまともにぶつかれば、長年の伝統といえども、憲法違反になるでしょう。ただ、それでは少し味気ない感じがしませんか。そんな切り口上なことを言い出したら、「神頼み」などというのは、科学的根拠がないのでやめようということにもなりかねない。そこで打ち出されたのが、「信教の自由」という伝家の宝刀です。
相撲の取り組みでは、行司という権威のあるジャジが存在します。しかし、行司さんも所詮は私たちと同じ人間ですから、差し違えることもあります。そうした間違いをカバーするために検査役が控えているわけです。その検査役の最終的判定も、近年はビデオの力を借りるなど日々進歩しています。こうして考えると、今回の暴行事件に端を発した一連のゴタゴタは、いわば公正な審判(行司)がいないため、村社会の論理と一般社会の論理がぶつかり合い、同体で土俵から転がり落ちたような状態ではないでしょうか。ここはひとつ、「相撲界の常識は、社会の非常識」などと言わずに、まずは胸襟を開き、じっくりと話し合ってみることから始めてはいかがでしょうか。ちょっと前までは、「日本の常識は世界の非常識」などと欧米から揶揄されてきました。でも、それを克服してきたわけですから。