仙台まちなか神社めぐり(その3)
多くの夫婦を結んできた、神前結婚式の草分け 仙台大神宮:一般庶民が伊勢神宮にお参りするようになったのは江戸時代からといわれている。しかし徒歩という手段しかなかった時代、容易ではない。維新を超えても事情は変わらなかった。伊勢神宮は明治時代の初期、神宮教という団体を設立、仙台にも教会所が開設された。これが現在の仙台大神宮の母体となり、以来百数十年、伊勢神宮のお札を入手できるところとして親しまれてきた。同神宮は先代における神前結婚式の草分けとしても知られる。今でこそ一般的になった神前式だが、始まりは明治33年、後の大正天皇の挙式といわれ、さらに広く知られるのは戦後のこと。はしりとなった20年代には1日で10組もの式を執り行ったことがあった。それから半世紀、価値観も式の場所も多様になったが、人々の神前式への思いは変わらないという。
主君に殉じた政宗の愛馬「五島」を祭る 馬上蠣崎神社(うばがみざき神社):かつての「市電通り」、青葉消防署片平出張所の向い側に蠣崎神社はある。良覚院丁公園の西隣だ。話は慶長19年(1614年)に遡る。伊達政宗の愛馬「五島」は、老齢のため大坂冬の陣に付き従えなかったことを悲しみ、仙台城本丸から崖下に身を投げる(政宗の死去の際に殉じたとする説もある)。この五島の霊を祭るため当時、蠣崎という地名だった追廻しに建立されたのが柿崎神社だ。時代は明治になり、追廻一帯を軍用地にするため、神社は現在地に移された。ここには藩政期、伊達家の保護を受けた修験道の寺、良覚院があったが明治維新後、廃寺となっている。永く近所で暮らしてきた人は少なくなかったが、今も親しみを込め「五島墓さん」と呼ぶ人がると聞いた。
火伏の願いを込めて祭った南鍛冶町、鍛冶職人の守護神 三宝荒神社:大きなイチョウが、南鍛冶町の三叉路に、ここが荒神様ですよ、と教えるように立っている。南鍛冶町は文字通り鍛冶職人の暮らした町で、伊達家に付き従ってきた職人たちが、元和年(1615から24年)に建立したと伝えられる。火伏の神様である三宝荒神は、火を扱う鍛冶職人にとって、まさに町の守り神であったろう。ここは旧奥州街道で、在郷と町場をつなぐ場所でもあった。「七郷方面から出てくる農家は必ずお参りしていたね」と総代長の高木一郎さんは賑やかだったころを振り返る。震災の影響で、長年、総代を務めた人たちが町を去ったが、6月18日(宵祭り)19日の例大祭と、火祭りであるどんと祭りは守り通している。