仙台七夕まつり(その2)
七夕を詠んだ歌、藩祖伊達政宗公の元和4年(1618年)の「まれにあう こよひはいかに 七夕の そらさへはるる あまの川かぜ」「七夕は としに一たひ あふときく さりてかへらぬ 人ゆくすゑ」や、四代藩主綱村公が8歳の時にしたためた「七夕」の書などが伝わる。伊藤さんは、収集した資料や地震の著作文献を示しながら、「当時の人々は、お供え物や道具を並べ、笹竹に飾って、牽牛織女の伝説に思いを馳せた。主に女性や子ども中心のお祭りだったようですね」と説明する。
七夕の翌日に笹飾りを川や海に流す習慣も定着し、仙台でも、評定橋(現在の評定河原橋)で行われた七夕流しの絵もあるという。明治6年(1873年)、新暦になって五節供行事が廃止されると、全国で行われていた七夕行事も次第に衰退していった。日露戦争後の不況でさらに廃れた。それでも仙台では、家庭の行事伝統として根付いていたため、細々と続いていた。藩が奨励し、寺子屋や裁縫学校などが、七夕を教育行事に取り上げていた影響が大きい。
そして、昭和2年、当時の大町五丁目共同会が、佐々木重兵衛会長の発案で、「不景気退散」を合言葉に七夕飾りをつけ、市民の好評を得た。翌年は6月に西公園で東北産業博覧会が行われたこともあり、さらに盛り上げようと、仙台協賛会と連合協議し商工会議所に建議して共同主催した。仙台駅から名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番町、虎屋横丁、立町通りなど11町会参加し、いよいよ8月6日から8日の大祭典となった。地元大町五丁目は、軒並み電柱をしのぐ高さの竹飾りを立て、高張提灯も吊り下げたという。