岩切城址の桜
岩切城は、築城年代は定かではありませんが、南北朝時代に留守氏によって築かれたと言われています。県民の森として親しまれている高森山(106m)の一角にあり、東西約1㎞にも及ぶ城跡は、県内中世城郭のうち最大級で、国の史跡にも指定されています。正平6年・観応2年(1351年)足利尊氏と直義の対立による観応の擾乱が東北にも波及し、奥州管領の吉良家と畠山国氏が対立しました。尊氏方に就いた畑山氏、宮城氏、留守氏がこの岩切城に籠城し、これを直義方の吉良氏、和賀氏、結城氏が攻め落とし、畠山氏ら百余名が討ち死にあるいは切腹しました。
その激戦地となったのが岩切城だったのです。留守氏一族は畠山国氏に加担したため、畠山氏が破れたため留守氏も壊滅的な打撃を受けて没落しました。その留守氏が再び勢力を盛り返すようになるのは、奥州探題大崎氏に忠誠を誓ってからである。しかし、伊達氏が進出してくると、留守氏は次第に伊達氏に服するようになっていった。留守郡宗、景宗、政景はいずれも伊達氏から当主を迎えました。政景入嗣の時には内部で反対の声が起り、政景は反対派であった村岡氏らを武力で鎮圧した。村岡氏が滅亡すると政景は岩切城から村岡氏の利府城に移り、岩切城は廃城となりました。
大きな中世の城跡は東郭・西郭から成り、今もその面影を深くとどめています。最高所の平場も広く、エドヒガンの大木が悠然と春の生命を漲らせています。その姿はみるものを圧倒します。桜は短命のように言われていますが、一輪の寿命は梅や桃と変わりないそうです。ただ、一輪一輪の花の熟度が揃って散るため、短く感じるのだそうです。晴れた日には、岩切の街並みから太平洋を見渡せる風光明媚な所です。一方、早朝には朝もやが現代の町並みの景色を消し去り、まるで中世にタイムスリップしたような幻想の世界へ誘われます。おぼろ月夜の桜もさぞ美しいことでしょう。