白石城
市内中心部に位置する白石城は、1083年の後三年の役での功を認められた刈田左兵衛尉経元(かったさひょうえのじょうつねもと)が白石の地を拝領し、築城したのが始まりと伝わる。中世には多くの窯を有する陶器の生産地として栄え、市内の一本杉窯跡群からは陶器の出土品や窯跡が多く発見されました。安土桃山時代に入り、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、領主は蒲生氏となる。蒲生氏は白石城を平山城へ改築し、現在の街並みを築きました。その後、上杉景勝を経て伊達政宗の家臣・片倉小十郎景綱が治めることになり、約260間片倉家の居城となりました。
江戸幕府によって一国一城令が発せられた後も、仙台藩には仙台城と白石城の2城が特例として認められました。白石城は仙台藩の南の要所として重要な役目を果たし、城下町は隆盛を極めていった。また、白石城では戊辰戦争の際に奥州25藩の重臣が集まって、奥羽越列藩同盟の公議所が設けられました。戊辰戦争敗戦後の1871年、白石地方は仙台県となり、白石領内の武士たちは北海道へと渡り開拓を行うか、白石で農民となるかの選択を迫られたという。北海道へと渡った者たちは現在の札幌市白石区の礎を築いた。
白石の特産品である温麺の歴史は古い。1689年に鈴木浅右衛門が、胃弱の父のために油を使わない麺を生み出したことが発祥と伝わっています。仙台藩下では大名家への贈答品として使われ、公儀お目付「藩秘録」では陸奥の名産品として名が残る。現在の短い麺の形状は、藩主の献上品と区別するために短く裁断し庶民向けの品として作られたものだそうです。藩秘録に記載しているもう一つの名産品が紙子です。紙子とは紙で作った衣服のことで、平安時代から和紙の原料である野生の植物と清流に恵まれ、良質な紙の山地だったことから、紙糸と生糸を織り交ぜた白石紙布は片倉家中の手内職として作られ、上質な仕上がりに高い評判を得ていたという。丈夫で美しい白石和紙は伊達藩の奉書などに使われていました。近代では、札入れやバッグなどの加工品が生み出されています。