室町・戦国時代の宮城(その4)
新たに幕府から任命された大名の悪政に不満を持った葛西と大崎の旧家臣や農民たちは1590年、大規模な一揆を起こし、激しく抵抗した。最初に葛西氏の胆沢郡で起こった一揆が、気仙郡や江刺郡へと徐々に広がりを見せていったのである。短期間に広まっていったことから、計画的な一揆だとみられ、一説には政宗による支援があったともいわれている。
この一揆は和賀郡や出羽国内にも伝播していった。
秀吉は1951年に政宗によってこれを制圧させ、この領地を政宗のものとした。生き残った葛西家の家臣たちは、「葛西勝つ」を合言葉として再興を誓ったという。その目印として門前にサイカチの木を植えたという伝説が残り、登米市内や岩手県南では今もサイカチの古木を多く見ることができる。一揆を制圧されたことで鎌倉時代以降、県内に大きな影響を与えてきた大名たちは消滅してしまった。
以後、宮城県は伊達政宗の統治へと進んでいくことになる。葛西氏の所領であった石巻は、北上川の水運の要として政宗により整備され、にぎやかな港町へ発展を続けた。大崎氏が治めていた地は、政宗が岩出山城を居城とした後、子の宗泰以降も伊達家が当主として治め、岩出山に城下町を築いていった。人々の攻防と歴史のうねりが、今の宮城県を作り上げていったのである。