鎌倉時代の宮城(その2)
この頃の東北は関東出身の鎌倉御家人によって統治された時代である。幕府の命により地頭となったのは熊谷氏、和田氏、千葉氏、菅原氏、伊佐氏、長江氏、小田氏、中条氏、加藤氏、渋谷氏、畠山氏、小野寺氏などである。平安時代以降の地域の有力武士の中でも地頭として認められた人々がいる。八幡荘(多賀城市・仙台市宮城野区)の陸奥介氏や柴田郡の芝田氏などである。
しかし、彼らは鎌倉時代にやはり関東の鎌倉御家人とって代わられ、東北は鎌倉幕府による統治が進められた。陸奥国の地頭たちは幕府から任された権力が大きく、田畑の開発や商業の発展に尽力する一方で、それぞれの領地の拡大を望み、互いに争いを起こすことが多かった。武士たちは訴訟を重ねる中でそれぞれの地域に土着し、領土としての性格を強めていった。
戦乱が続く鎌倉時代以降、武士に加えて民衆も神や仏に救いを求めるようになり、各地で多数の板碑が造立された。板碑とは、石面に梵字や文を刻んだ供養塔である。板碑をつくること自体が功徳を積む行為とも考えられており、県内からは大小様々なものが見つかっている。板碑は関東が発祥と言われており、鎌倉時代中期以降、陸奥国に派遣された人々が伝えたと思われる。留守氏領内だった仙台市宮城野区岩切の東光寺遺跡では120基を超える板碑が見つかっており、有数の霊場の一つだったと思われる。