室町・戦国時代の宮城(その2)
南北朝の争いの中、東北の武士・鎌倉以降の地頭たちは南朝北朝に分かれて互いの領地の勢力争いを行っていた。南北朝時代末期になると、戦いを繰り返すうちに権力を集めた有力武士たちが現れるようになる。特に大きな勢力を持っていたのが、牡鹿以北の葛西氏、栗原・大崎の大崎市、名取以南、福島の伊達郡を拠点とした伊達氏である。
国府多賀城周辺は留守氏や国分氏などが治めていたが、その勢力は大きいものではなかった。15世紀の初め、斯波氏の一族である大崎詮持(おおさきあきもち)が奥州探題に任命され、陸奥の新たな支配者となった。大崎氏は拠点を志田郡の名生城(みょうじょう:大崎市古川大崎)に移したことから、長く続いた多賀国府での統治の歴史はここに終わることとなる。
大崎氏は戦国時代の間、奥州探題として代々続く家となり、陸奥国で大きな権力を握っていた。しかし、伊達氏は葛西氏や大崎氏へ養子や婿入りを行ったり、幕府への献上を積極的に進めたりと、地位の向上に力を注ぎ、次第に大きな影響力を持つようになる。そして伊達稙宗(だてたねむね)は、1522年、室町幕府から陸奥国守護職を命ぜられ、幕府お墨付きの権力を持つことになった。