平安時代の宮城(その2)
藤原清衡・基衡(もとひら)・秀衡(ひでひら)の三代が平泉を治めていた時代、陸奥国の国府は多賀城にあった。しかし、実質的には藤原氏の支配下にあり、宮城県内に遺された文化財からも平泉文化の影響を多く見ることができる。南三陸町と気仙沼市にまたがる、秀衡が深く信仰した田束山経塚群(たつがねさんきょうづかぐん)からは平安時代末期の経巻が発見されている。
田束山経塚群は、標高512mの田束山の山頂にあり、11基の経塚からなる史跡で、青銅製の経筒や経巻が見つかっている。また、現存する建造物としては、角田市の高蔵寺阿弥陀仏堂がある。高蔵寺は819年に徳一菩薩によって開山したと伝わるが、阿弥陀堂は藤原秀衡の妻により1177年に建立された宮城県最古の木造建築物である。
阿弥陀堂は、平泉建築を思わせる様式を持ち、静かな雰囲気を漂わせている。堂内には弥陀仏像が安置され、今も角田のまちを見守っている。石巻市の水沼窯跡では、平泉に供給するための陶器が作られ、完成した製品は北上川を舟で上り運ばれていた。平安時代の宮城は平泉を支える重要な地として藤原氏と深い関係を築いていた。