室町・戦国時代の宮城(その1)
鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇を中心とする南朝側と足利尊氏を中心とする北朝側の対立から始まる南北朝争乱へと突入する。東北も中央の勢力争いの影響から、激しい合戦が相次ぐようになる。1333年、北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇から陸奥守として任命され、着任後わずか一年で陸奥国をまとめ上げた。
この時、多賀国府は政所・引付・評定・寺社・安堵奉行・侍所という構成から成り立ち、幕府と同様の組織構成を築いていった。これは陸奥国の政府が幕府にとって特別な存在であったことを示している。顕家は多賀国府・留守氏や南奥州・白河氏、和賀郡・和賀氏、北奥州・糠部南部氏、津軽・曽我氏など地元の有力武士を支配下に治め、奥州一帯の武士たちをまとめていった。
顕家は公家出身であったが、争乱の中で武士としての華麗な手腕を発揮する。後醍醐天皇に背いた足利尊氏を討つため、1335年、顕家は奥州の豪族の協力を得て、数万の騎馬軍を引き連れて京都へと向かった。驚くべき速さで京都へ辿り着いた顕家の軍は、足利軍に対して圧倒的な勝利を収め、武士としてその手腕を広く知らしめたという。だが翌年、多賀国府に戻った顕家が見たものは、北朝側に支配された留守氏であった。多賀国府における影響を失った顕家は国府を放棄することとなり、伊達郡の霊山に拠点を移し、次第に勢力を弱めていった。