室町・戦国時代の宮城(その3)
戦国時代末期になると、一族の内紛などから衰退していく大名たちも多くなる。その中で現れたのが伊達政宗である。政宗は県内の武士たちを次々に統治し、大崎氏と葛西氏も事実上の支配下に治めていった。葛西氏や大崎氏は領主としての名目は保っていたものの、正宗は領主たちの上に立つ大名として成長したのである。
1590年、豊臣秀吉は小田原攻めに際し、奥州の大名たちにも参戦するよう命令を送った。葛西氏、大崎氏の元にも当然命令は届いたが、両氏はこれに参加しなかった。これには伊達政宗の制止があったせいだという。当時、葛西氏と大崎氏は政宗の支配下にあったため、政宗は大名として参向すべきは自分だけであると考えていた。
そのため、両氏の小田原参陣を許さず、政宗のみが小田原へ向かうことになった。しかし、秀吉は政宗の主張を認めず、謀反者として葛西氏、大崎氏の所領を没収してしまった。これが「奥州仕置」である。この奥州仕置により、大崎氏、葛西氏の両氏は終焉を迎えることになったが、新たな大名への反発となり、一揆が勃発へとつながっていった。