鎌倉時代の宮城(その1)
源頼朝によって奥州藤原氏が滅ぼされたのち、岩手県南部と宮城県北部を治めるよう派遣されたのが葛西清重である。葛西氏は、もともとは関東の下総国葛西郡の豪族だったが、藤原氏との戦いで名をあげ、平泉の検非違使所を統合する検非違使(けびいし)という役職を命じられたものである。
奥州藤原氏の時代を終えた後、東北は鎌倉幕府による統治が進められていった。清重は石巻に大きな港を整備し、産業・経済の中心地として発展する基盤を作ったといわれている。葛西氏は以降400年にわたり、地元の人々から信頼を得ながらこの地を治めた。清重と同時期に陸奥国留守職として多賀城国府に派遣され、大きな影響を及ぼしたのが留守氏(るすし)の祖・伊沢家景(いさわいえかげ)である。
陸奥国留守職とは地頭や民衆を治める重要な役職であり、伊沢氏は二代目以降、留守氏を名乗るようになった。当時、陸奥国の役人として任命された人は、現地へ赴かず、家臣に任せることが多かったが、家景は岩切の地で政務に尽力し、子孫は代々留守職を任されるようになる。留守氏の領内(仙台市宮城野区・宮城郡利府町)は七北川が流れ、農業が盛んな地であった。
七北川のほとりで食料や物品を交換する市場も開かれ、商業の町としてもにぎわいを見せるようになる。港町塩釜と通じる七北川の水運によって各地と交流を図りやすい土地柄と、留守氏の政治によって岩切一帯は先進的な町を築き上げていった。また留守氏は、陸奥国一宮である鹽竈神社の神主となって祭祀を司り、支配を広げた。