鎌倉時代の宮城(その3)
この世と死後の平安を唱えた紀伊の熊野信仰は全国に受け入れられ、東北では青森県北部まで広がっている。名取市の名取熊野三山は勧請された地の一つで、熊野本宮、熊野新宮、熊野那智などから構成されている。本宮、新宮、那智社の三社がそれぞれ分霊され、紀伊熊野三山と同様の方角位置関係で構成されているという貴重な霊場である。熊野那智神社からは信仰の対象である懸仏が140面以上見つかっており、陸奥国の中でも有力な拠点として多くの信仰を集めていたことが分る。
景勝地としても有名な松島は古くから修験場として多くの僧侶が修業を行った地である。天台宗の寺院・延福寺として信仰を集めていた現在の瑞巌寺は、奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府が大檀越(おおだんえつ:檀家長)となり、北条政子から奉納された水晶製斜容器などが残っている。1248年、執権北条時頼が松島を訪れた際、岩窟の中で出会った禅僧の法身に感銘を受け、延福寺を禅宗に改宗し、名も円福寺と改めたという。その後、松島は天台宗のほか、禅宗など、いくつかの宗派が活動する地となり、東北でも有数の霊場として多くの僧により栄えた。
戦闘や武士の移住などにより、各地の人々との交流が盛んになったのもこの時代の特徴である。特に東北の馬は古くから名馬として広く知られており、京都や鎌倉の貴族、武士たちがこぞって手に入れたがったという。当時の絵巻物には馬の尻に生産地を示す焼印が押され、京都に運ばれていった様子が描かれている。投棄の流通も広い地域で行われていた。県内から東海地方や北陸地方の壺や甕、すり鉢などが出土している。また、県内では、愛知の常滑焼の影響を受けた窯がある。大崎氏の三本木窯、登米市の伊豆沼窯、白石市の白石窯が発見されており、白石窯は34基以上の窯がある大規模な製造地だったことが推測される。